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1983-1993 メンデス・ラウルの来日2018-03-23T19:30:28+09:00

1983-1993 メンデス・ラウルの来日

私と日本との接点を取り持ったのは、スーパーコンピュータ(スパコン)でした。
私はアメリカ海軍大学院大学の数学科の助教授として、スパコンを用いて流体解析の計算を手がけていました。そして、1983年には米国防総省の高等研究計画局(ARPA)が導入したコンピュータネットワーク「ARPANET」を使い始めていました。
1985年のことです。私と同様の研究をしていた日本の宇宙科学研究所の研究者が私のことを論文で知り、当時、日立製作所や富士通、NECが開発したスパコンの性能試験をしてほしいと依頼してきました。私はその依頼内容に興味を持ったので、初の日本行きを決めました。日本に来て、流体解析のコードで性能比較テストを行ったところ、驚いたことに、ある計算において日本製のスパコンのほうが米クレイ社製のものより高い性能を発揮したのです。このことを論文にまとめて発表すると、ニューヨーク・タイムズがこれを取り上げて大きな話題となりました。その後も私は数回日本を行き来することになり、そんな中で皆が一生懸命に働くこの国に惹かれ始めたのです。

1986年の終わり頃、スパコンの時間貸しビジネスを始めたリクルートが、「スーパーコンピュータ研究所を設立してほしい」と私をスカウトしてきたのです。好条件だったこともあり、私はそれに応じて1987年4月リクルートに入社しました。
私はリクルートスーパーコンピュータ研究所所長として30人ほどの優秀な研究者を集め、時間貸しビジネスを拡張するためのアプリケーション開発に注力しました。当時、日本はスパコンの普及に力を入れていた時期で、東京大学などが導入し研究を進めていたのです。そんな日本の動きに刺激されたアメリカ政府は、アメリカ全土の大学にもスパコンの設置を進め、さらにコンピュータ同士をつないでより高い性能を発揮させるため、ARPANETを民間に開放し始めました。これがインターネットの始まりです。日本にいた私もインターネットを活用したかったのですが、日本にはまだそのネットワークインフラが整備されていませんでした。そこで私はARPAなどに交渉し、その結果、太平洋に敷設された海底ケーブルを使い、ハワイ大学を経由して接続することができたのです。おそらく、日本で最初にインターネットに接続したのは、この私ではないかと思います。

情報出版会社のリクルートは当時、紙メディアを商品としていました。翌88年に取締役に就任した私は取締役会で「すぐにネットの時代が来る。早く準備すべきだ」と提言しました。そこから私の業務はスーパーコンピュータに加え、インターネットもテーマとなったのです。
しかし、1988年に発覚した「リクルート事件」により、スパコンの時間貸しビジネスは頓挫し、私は1993年にリクルートを去ることになりました。

CloudGateの誕生
1993 – 2007 ISRの設立、「Zolar」「PPPhone」の開発